ストレンジは奇妙とは限らないし自分の心は踏みにじられていない

昨晩訳して記事にしたボウイの「Changes」では、「ストレンジ」という言葉が鍵になっている。日本語では「奇妙な」「変な」と訳されがちな言葉だけど、単に「未知の」「見慣れない」「外から来た」という意味でもある。「奇妙な」というのは馴染みのないものに接したときに受ける主観的な印象。江戸時代、初めて日本に上陸した西洋人は、日本の価値観や暮らしを見て「奇妙」に思ったかもしれない。しかし日本人からすれば長年やってきた当たり前のことであって、外からやってきた見慣れない西洋人のほうがよっぽど奇妙。自分だって、見た目も中身も大して奇妙な人間ではないと思うが、いま住んでいる土地では誰とも関係のないよそから来たストレンジャー。ストレンジってそういう意味だと思う。だから「Changes」ではあえて「奇妙」という言葉は使わずに訳した。チェンジの先にあるのがストレンジな世界なのだ。

ここで、最近のニュースの話になってしまうが、とある市長がとあるイベントに出品された芸術作品を「日本国民の心を踏みにじるもの」と評した。こういう物言いに強い違和感を覚えてしまった。自分も日本人の両親を持ち、日本で育ち、日本の選挙権やパスポートを持つ日本国民。しかしその作品を見て自分の心が踏みにじられた気はしなかった。むしろ、踏みにじられたのはその作品が表現している心のほうだろう。一部の日本人は不愉快に感じるかもしれないけど。その市長から見れば自分の考え方は日本国民にあるまじき「奇妙な」ものなのかもしれない。でも、自分がまっとうだと信じる考えを「国民」の名のもとに暴力的に曲げられるぐらいなら、奇妙な奴だと思われても構わない。そうやって主流とストレンジャーを分けたいのなら、自分はあくまでストレンジャーでいなくてはならない。自分に言わせれば、ごく普通の人間だけどね。

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Turn and face the strange.

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