父と農園とラジオ

サラリーマン生活を40年続けた父、退職後はひたすら趣味に打ち込んでいる。ここ数年は、小さな土地にほとんど独力で作った農園に都内の実家から電車でせっせと通っては、プレハブ小屋に泊まり込んで農作業をしている。5年前に帰国してからの自分は、息子と夏休みに父の農園を訪ねるのが毎年の恒例行事になっている。今年も今週初めに一泊してきた。車で買い出しやもの運びをして、作物の収穫や草取り、トイレ掃除などの手伝いをしつつ、夜は収穫した野菜を鉄板で焼き、3世代の男3人で花火をして、農園内に小さなテントを張って寝る。体力的にはかなりきつい行事である。自宅から農園まで車で片道4時間以上かかるし、テント泊だし、草取りもしたらすっかり背中が痛くなってしまい、帰宅して二日経ってもまだ背中に湿布を貼っている。今年で77歳になった父、ほんとよくやるよ、と感心してしまう。ポールと同い年の父、昨年は突発的ビートルマニアと化して、一緒にポールの来日公演を観に行った。今年はビートルズはひと段落して、ビル・エヴァンスなどジャズに凝っているようだ。いつまでもこんな風に元気でいてほしい。

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ゴーヤのカーテンの下にテントを張って寝た

農園ではいつでもNHKのAMラジオが流れていて、それを聴きながら農作業をする。父の育てている植物を見たり収穫をしたりしていたら、チューリップの「心の旅」が聞こえてきた。子供の頃からあらゆる場面で流れてくる歌だけど、やはりいい曲だなあ、と耳を傾ける。続いて甲斐バンドの「裏切りの街角」(これもまた名曲)がかかった後、今度は鮎川誠がゲストで出てきて語り出した。そのとき放送していたのは、年代を追って福岡出身のロックバンドを特集する番組のようだった。鮎川誠の話は、デビュー前のことから。生まれは久留米で、福岡は憧れの都会であったこと。大学進学を口実にして福岡にのぼり、入学式当日の夜からバンドに参加してギターひと筋に打ち込んだこと。ビートルズはリバプールで活動してデビューできたのに、日本では東京に行かなければデビューできないなんておかしいぜ、と福岡のバンド達で盛り上がって活動していたこと。鮎川誠が訥々と語る若き日の話は楽しそうで、とても良かった。初めて日本語で作った思い出深いオリジナル曲、と言ってサンハウスの「キングスネークブルース」をかけた。文句なしに格好いいブルースギターである。自分は鮎川誠の音楽をそんなによく知らないけど、何だか昔から親しみを感じるミュージシャン。80年代からコマーシャルによく出てきてテレビで姿を目にしていたこともあるが、日本語ロックの話をしているとき、先駆者のひとりとして「細野さんのはっぴいえんど」という名前を出してきて、そうだった、と世界がつながった。鮎川誠はYMOの「デイ・トリッパー」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」でギターを弾いていたのだ。

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ラジオを聴きながら収穫したトウモロコシ、美味しかった

YMOは自分が生まれて初めて好きになったバンド。ビートルズに夢中になりはじめたのは10歳の頃だったが、それより1年ほど前である。YMOにゲスト参加した鮎川誠の演奏は「格好いいロックギター」の原型として自分の奥深くに刻まれている。80年代初め、まだ「散開」前の時期に、父がNHK-FMのYMO特集番組をカセットテープに録音していて、そのテープを自分はラジカセで繰り返し聴いていた。父とYMO、全然つながらない。父もなぜYMO番組を録音したのか覚えていないようだったが、80年代当時の父はラジオをこまめにエアチェックしては、色々なジャンルの音楽をテープに残していた。ビートルズをはじめとする英米ロック・ポップスの名曲群を知ったのもそんなテープからだった。自分が父の録音していたテープからどれだけ影響を受けたか、後年になって伝えるまで父はまったく認識していなかった。

サンハウス時代の話のあとは、シーナ&ザ・ロケッツの「レモンティー」がかかった。シーナがロックシンガーとしても、家庭での母親としても最高だったことをまた淡々と語る鮎川誠。亡きパートナーへの感謝の気持ちが真っ直ぐ伝わって、ぐっと来るものがあった。ほんとに一本筋の通った誠実なひとだなあ、と農作業をしながらしみじみと聴いた。やっぱりラジオはいいものだ。うるさいときもあるけど、思いがけない場所でいい音楽やいい話が聴けたりする。ラジオと、それを録音した父が自分に与えた影響は大きい。

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今年は自分の庭でオクラを育てなかったが、来年はまた育てようと思った。夏は毎朝この花に会いたい。

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