血液型性格判断の超能力者に会ったことがある

最初にはっきり言っておくが、自分は血液型で性格の類型が決まるなんて全然信じていない。男脳・女脳の存在だって疑問視されている時代に、世界で日本人だけが信じているまことにばかばかしい迷信だと思っている。しかしである。自分は血液型性格判断の超能力者に会ったことがあるのだ。

15年ほど前、英会話教室に通っていた時期があって、たまにあるクラスの飲み会に参加したときのことだった。自分と同じクラスにいた当時20代前半ぐらいの女性が、その会の席で超能力を披露した。その場にいた5~6人ぐらいの血液型を全員ぴたりと当ててしまったのである。自分も当てられた。ふっ、あなたはもう典型的な__型ですね、という感じで、造作もなく当てられてしまったのだ。よくある占いのトリックとして、あなたの性格はこうです、運勢はこうです、と誰にでも一部は当てはまるようなことを言われると、それはたしかにちょっと当たってるな、となるわけだが、それとは話の順番が逆だった。他人の目から自分の性格の類型を見抜かれて、血液型を逆判定されてしまったのだ。ちょっと衝撃的だった。

この出来事は自分の中でずっと引っかかっていた。血液型で性格が決まるなんてまったく信じていないのに、こんなことがなぜ目の前で起きたのか説明がつかない。これが手品だとしたらトリックは何だったんだろう。今にして考えられるのは、やはり自分が育った昭和後期の日本には血液型に基づく性格の決めつけがかなり強固な常識として存在していて、自分も無意識のうちに影響を受け、性格の一部に自ら取り入れてしまっていたということである。まだ昭和の影響が残っていた平成の半ば頃、その類型化された性格の微妙な特徴を見抜く能力を、その英会話クラスメイトは持っていた。自分の性格はその血液型に典型的だったようなので、それだけ自分は洗脳されやすい人間ということになる。

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God, God, God

自分は「男は」「女は」と決めつけて話す人たちが苦手で、誰かがそういう言い方を始めた途端に、このひとの眼中に自分は入ってないのだなと思ってしまう。でもやはり、血液型ですら前記のとおりなのだから、社会で当たり前に言われる「男は」「女は」というジェンダーの観念も、自分内に否が応でも強固に根ざしているはずなのである。男らしい男にも女らしい女にも自分は近寄りがたさを感じるので、男女にくっきり分かれた社会なんて居心地が悪い。できれば中性的でありたいと思うけど、それでもジェンダーは自分の一部としてすでに不可分になっている。自分内でちょっと矛盾を感じる。そのジェンダーで決められた役割に進んで乗っかって、生きがいを感じている人々もたくさんいるだろう。頼りがいのある大黒柱になったり、可愛くしっかりしたお嫁さんになったり。本当にそういう役割に向いていて、性差別をされていると感じずに楽しく生きられるのなら、それはそれでいいと思う。でも、そうでない生き方もある、というのが最近ようやく大きな声で言われるようになった。

自分が育った昭和後期の日本社会では、ジェンダーにしろ、性格や生き方にしろ、グループ別の類型的な決めつけは当たり前の常識で、疑問を差し挟む余地はほとんどなかった。とても息苦しかった。全然違うのに性別や年代などの属性で束ねられて、自分はものの数に入っていないのだと思った。存在を許される人間の類型が決まっていた。暗い性格ではいけない、太っていてはいけない、格好良かったり可愛かったりして異性に好かれなければいけない、男子なら運動が得意でなければいけない、などなど。あらゆる基準から自分ははじかれて、どうしようもなく疎外感、劣等感を抱いていた。令和の世の中はどうなのか、息子を通じて知る限りでは、昭和よりはましになったのかもしれない。息子のクラスメイトに恰幅のいい男の子がいて、その子が「俺は太ってることを誇りに思ってるよ」と言ったのだそうだ。そのセリフが自分はとても気に入っている。そんなふうに言えるなんて、ものすごく格好いいよ。

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