2021年7月の雑感:いじめと誠実さについて

自分は中学生だった頃、いじめの被害者だった。まったく一人で我慢してどうにかやり過ごし、大人になった。家族にも教師にも、もちろん友人にも、このことは誰にも相談しなかったし、具体的な話をしたことは一度もない。当ブログにも、具体的なことを書くつもりはまったくない。

あれから長い間、自分はその過去を「なかったこと」に近いものにしようとしていた。自分はそんなに酷いことをされたわけではない、普通より少しからかわれやすかっただけだと。もっとずっと凄絶な被害を受けた人がいくらでもいるのは本当だけど、ずいぶん時間が経った最近になって、程度の比較はさておき、自分だって十分に酷い目に遭ったのだと素直に認めていこうと思っている。あの頃、自分は酷いことをされた。紛れもない人権侵害を受けた。あれをなかったことにするのは、苦しんでいた中学生時代の自分をないがしろにすること。よく乗り越えて、ここまでやってきた。あの頃の自分から全力で遠く離れたかったから、見たくもない過去を直視するのが嫌だったから、なかったことにしてきたけど、とても辛い目に遭った日、暗い地下鉄の駅のホームから鈍く光るレールを眺めていたときの気持ちは、今でも忘れることはできない。一番仲のいい友達だと思っていた奴が、その場の流れで加害側に回ったときの表情も一生忘れないだろう。

同じクラスには知的障害を持った女子が一人いて、日常的にからかいの対象になっていた。彼女をかばったり味方に付いたりする者は一人もいなかったし、自分もただ傍観していただけ。我が身と同じように日常的に尊厳を傷つけられていた彼女に同情する気持ちが、当時の未熟な自分にあったかどうか。こんな傍観も同罪なのだから、自分だって同罪。本当に中学校の教室は色々な意味で地獄だった。そんなわけで、被害者だったからといって加害側を一方的に責め立てる気にも自分はなれない。同じコインの両面である。公開のSNSで発言するのをやめた大きな理由の一つも、まかり間違っても自分が加害側に回りたくなかったこと。週替わりのように浮かんでは消えていった、いわゆる炎上騒ぎには極力関わらないようにしていたけど、何か自分の気持ちを大きく揺さぶる問題が持ち上がって、対象をとことんぶっ叩きたくなったら、間違えてしまうかもしれないし、もうすでに間違ってしまったかもしれない。同じ意見を持つ集団でわーっと盛り上がったら、絶対に間違えない自信はない。自分の冷静な判断力や意志の強さに自信が持てなかった。そんなことでは、かつて辛い思いをした自分に申し訳が立たないので、そういう危険がある場に関わるのはもうやめた方がいいと思った。

上記は現在ニュースで話題になっている小山田圭吾の件を受けて書いている。ロッキングオンジャパンに問題のいじめ告白インタビューが載った94年当時、興味のある号は時々買って読んでいたけど、自分が問題の号を読んだのかどうか、どうしてもはっきり思い出せない。どんなに心地よく幸せな気持ちにしてくれる作品を生み出すアーティストでも、人間としては明らかにアウトであるという、そんな事例は当時すでに腐るほど本や雑誌で目にしてきたので、件のいじめ告白を読んでいたとしても、酷いと思う感覚がもしかしたら麻痺していたのかもしれない。今回の騒動よりずっと前にネットで一度この件が大きな話題になって、酷いことをやってきた人間であるというのは自分の認識の中でも定着したけど、それでも彼の作った音楽のいくつかは好きだったから、たまに聴いて楽しんできた。これも傍観なのだと言われれば、そうなのかもしれない。いじめの被害者でも傍観者でもあった自分は、今回の件はこう思う!という意見をこの記事で述べることができない。ただ、今回のことで自分の過去のことも色々と思い出して、それをなかったことにはもうしたくないから、むにゃむにゃとしながら書いたに過ぎない。

ひとつだけ確実に思うのは、たとえ間違ってしまったとしても、できる限り誠実にその後始末をしたい。誠実さより当座の利益や保身を優先して、すべきことをしないまま長く引っ張れば引っ張るほど、事態はどんどんこじれていく。今はそんな不誠実をさんざん重ねに重ねた挙げ句に、負のオーラがどす黒く渦巻くブラックホールのようなものが、東京都心あたりで大きな口を開けているようだ。そこにうっかり吸い込まれた者は、ただでは帰れない。こんな不誠実の積み重ねが今後どんな報いをもたらすのか、自分は戦々恐々としながら見守るだけ。こんなことは早く、できるだけ無事に終わってほしいと祈るばかり。

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