老いていく命、新しい命、永遠不変の真理

自分も先月でとうとう50歳になってしまって、50代の抱負としては「楽しく生きる」というのをざっくり掲げてみたのだけど、早くもあんまり楽しく生きられる気がしなくなっている。自分自身が確実に心身ともに衰えてきているのは言うに及ばず、それ以上に大きく心にのしかかってくるのが「親たちの老い」である。先週末に東京の実家に行って、母には2年半ぶりに息子の姿を見てもらった。前回顔を合わせたのはコロナ禍が始まる直前、2020年の正月だったのだ。そのときの写真を見ればまだ小学生小学生していた息子は中学2年生になり、クラスの中では背が小さい方だけど、それでも母の身長をとっくに追い抜いていた。母の方は逆に、近ごろは身長が3センチほど縮んだのだそうだ。言われてみれば確かに、かつて知っていた母より小さくなった。頭はまだまだしっかりしていて、話していれば普通に昔と変わらない様子なので、会っている間はそんなに老いを感じず、楽しく過ごして帰ったのだけど、脚を悪くして外では父につかまって歩いていたし、話し方にも少し無理をして声を張っている感じがあった。やはり、確実に老いているのだ。自分がそう思いたくないから、自分の中で「母はまだ昔と変わらない」という方向にバイアスをかけて認識しようとしている気がしてきた。それに気づくと、何だか気分がどーんと暗くなった。それ以外にも色々とあり、やはり50代はこのテーマを避けては通れないのだと思い知る。

実家に行った翌日の朝。家の窓から見える野原のほうで、早い時間からしきりと子猫の鳴き声のようなものが聞こえる。様子を見に行けば案の定、家のそばの溝にはまってしまった子猫が、親猫とはぐれて必死に鳴いていた。そのとてもちっちゃな猫を保護して、びしょ濡れの脚を拭き、タオルでくるみ、近くの獣医さんに電話した。日曜日だったけど午前中は開いていて、すぐに診てもらえたのはラッキーだった。ざっと診察してもらった限りでは健康に問題はなさそうで、ノミも見当たらず。獣医さんはノミ取りの薬をスプレーして、熱を測り、ちょっと体温が低いのでご飯を食べ始めるまでは温めてあげてください、と言った。子猫がはまっていた溝には、浅く水が溜まっていたのだ。水が深かったら溺れてしまっただろうし、うちが朝から外出していて子猫の声に夜まで気づかなかったら、溝の中で濡れたまま小さな体が冷え切ってしまったかもしれない。この命には運が味方してくれた。子猫はその日のうちにキャットフードをばくばく食べ始めて、とりあえずひと安心。生後3~4週間ぐらい、すでに乳児の段階は脱していて、食事も排泄も最初から自分でできているのはとても有り難いけど、当面は何よりもトイレを覚えてもらうのが一番の課題である。家に来て6日目、すでに日々大きくなっているのが分かる。子猫ならではの異常なかわいさを発揮しまくっていて、この命を溝から助け出すことができて本当によかったなあと思う。

家にはすでに先住猫が2匹いるのに、こうして唐突にもう1匹と一緒に暮らすことになってしまった。その日の朝に布団から出たときには、間もなく家に新しい猫が来ることになるなんて夢にも思っていなかった。いつ何が起こるか分からないものだ。先週末は、土曜日には老いていく命に会いに行き、日曜日には新しい命が家に飛び込んできたことになる。その中間にいて、どちらかというと老いに近い50歳の自分は、日々流転する万物に翻弄されるばかりで、どうにも疲れて混乱している。先行きに不確定要素があると過剰に不安になってしまう自分には、こういうのは辛いのである。この不安感がこれから何年も続くのだろう。親をはじめ、自分の周りを取り囲む大切なあれこれが、行きつ戻りつしながら、長期的に見れば終わりと別れの方に向かってどんどん流れていく。年を取るとはこういうことなのだ。やっぱり50代、しんどいな。だがそんな不確かな状況にあっても自分が無条件に信じられる、永遠に不変の真理がある。その真理とは――子猫はかわいい。

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散歩をすればタチアオイの花が楽しめる6月になった。今回の前に新しく子猫を育てることになったのも3年前のタチアオイの季節で、やはりある朝突然決まったのだった(そのとき書いた記事

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