Hank Jones and Charlie Haden「Steal Away」

ハンク・ジョーンズのピアノと、チャーリー・ヘイデンのベースのデュオが奏でる黒人霊歌・賛美歌集アルバム「Steal Away」。日本盤は「スピリチュアル」という邦題で発売されている。自分はだいぶ前にAmazonに本作のレビューを投稿したことがあって、そこでも同じことを書いたのだけど、今も変わらずこのアルバムは、自分がこれまで出会った音楽作品中でも確実に五本の指に入る。お二人ともジャズ界で不動の名声を誇る大演奏家ながら、ジャズに期待する即興演奏の応酬、といった要素はほとんどない。アメリカ音楽を心から愛する二人の名匠が丁寧に誠実に綴った、静かで、温かく、美しく、とても包容力のある深い音楽。まずは1曲目の「It’s Me O Lord」を耳にすれば、ここで言うことはすべてわかってもらえるはず。


このアルバムのタイトルになった「Steal Away」という曲は、この作品でのインスト演奏しか自分は知らないのだけど、元々の歌詞は「天国へとこっそり逃れよう」という内容らしい。激しい差別を受け、奴隷としての境遇を強いられていた黒人たちの、救済への願い。黒人霊歌にしてもブルースにしても、当時の黒人と程遠い恵まれた境遇にある日本人が聴いたり演奏したりすることに意味があるのか、という話はたびたび見かける。自分は、大ありだと思っている。この世に生きている以上は、境遇にかかわらず何らかの苦しみを感じるのは必然であり、そうすればつらく憂鬱な気持ちになって命を投げ出したくもなり、心の平安を取り戻すための救いや癒やしを求め、あるいはどうしようもない怒りや反抗心を抱える。そんな心にじかに寄り添い、訴えかけるのが黒人音楽なのだと思う。もちろん、自分は自分の人生を生きることしかできず、酷い差別を受けている黒人の境遇に成り代わることなどできようもない。劣悪な状況下で素晴らしい音楽を生み出していった黒人民衆には最大限の敬意を払わなければならないし、心から尊敬している。ハンク・ジョーンズとチャーリー・ヘイデンの「Steal Away」は、そんな黒人音楽、ひいてはアメリカ音楽の神髄を、自分が知る限り一番深く感じさせてくれる演奏集である。

ここのところ、世間では心の底からひやりと嫌な冷気が上がってくるようなニュースばかり目にするし、個人的にも心が弱くなっていて、すぐに恐れを感じては足元がぐらつく。生まれてから半世紀を過ぎようが、揺るぎなく安定した心境などとは程遠く、悩みの種は子供の頃から大して変わらず。自分の気弱さと、悪い意味での変わらなさにほとほと情けなくなる。心を強く持とうにも、まずはばらばらになった心のかけらを拾い集め、両足を地に着けるところから始めなければならない。

「Steal Away」のテーマになっている賛美歌や黒人霊歌は、本来はキリスト教に基づくものだけど、どの宗教の信者であろうが、無宗教であろうが、触れる人間がまっすぐ心を開けばその魂に鎮静作用をもたらしてくれる、普遍的な音楽だと思う。この演奏集は、自分が生きていく上で必要なもの。いつでも自分を温かく迎え入れ、落ち着かせてくれる心の故郷。どこに両足を置けばいいのか教えてくれる、固い地面のようなもの。足が立たない水の中で溺れかけてもがいているとき、ふと足先に触れ、もう一度まっすぐ立たせてくれる地面。何があっても心の中で一生大切に守り続ける、かけがえのない宝物なのだ。出会えてよかった。

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