「Joao Girberto in Tokyo」を聴いて2004年来日公演を思い出す

ジョアン・ジルベルトの音楽は自分の日常に完全に溶け込んでいる。気分を一番いい形に落ち着けてくれるので作業BGMのプレイリストに入れて長年頻繁に聴いているし、あの独創的としか言いようのないギター奏法のコピーにもたびたびトライした。そして、来日してくれたときは東京国際フォーラムに公演を観に行った。訃報をニュースで知って、まず思い出したのはその公演のことだった。正確に何年の公演だったのか覚えておらず、自分が友人に書いたメールを検索してみて2004年だったとわかった。当時、自分はもう最新の音楽情報を追いかけたり新譜を買ったりほとんどしていなかった。それでも、2003年の初来日公演の評判は目にしていて、そんなに凄かったのなら自分もぜひ体験したかった、と思っていたところに再来日があったのだろう。15年も前のこと、どんな曲を演奏したのか具体的にはほとんど覚えていない。覚えているのは、その場の特別な雰囲気。空調すら止めるようにジョアン側から要請があったという、とても静かな国際フォーラムのホールで、息を潜めて熱心にステージを見守る聴衆。まさしくあのジョアン・ジルベルトが、自分と同じ空間で、声とギターだけの素晴らしい演奏を繰り広げてくれてとても満足した、という静かな美しい思い出だけが自分の中に残った。

亡くなったことを知った日、その来日公演のことを思い出そうとしているうちに、2003年の初来日公演の模様を収録したCDが2004年に出ていたことを初めて知った。自分が公演を観に行った年に出ていたのだが、今までそんなことも知らなかったのだ。すでに廃盤のようで、新品はプレミアが付いていて入手できなかったが、状態の良い中古盤がAmazonに出ていて買える値段だったので、すぐさま注文した。CDが届いてから、すぐ聴く気にはなれなかった。これは何かのついでに聴くようなものではない。忙しい平日の終わりに脳が疲れた状態で聴きたくもなかった。静かに集中して聴ける状況になるまで待った。平日より一時間半遅く起きた雨降りの日曜日の朝、今こそタイミング、とCDをプレイヤーにかけた。プレイヤーも先週中古で買ったばかり。近年、CDはもっぱらパソコンに落として聴いていた。圧縮しても音質の差など自分には大してわからないし、もうプレイヤーなど要らないと思っていた。でも最近になって、パソコンの電源を切ってもCDが聴けるようでありたいと思うようになった。パソコンに向かわなくてもいいときは、ファンの回る音にも画面の明かりにも煩わされずに、小さいながらもジャケを眺め、ライナーを読みながら、静かに音楽に浸りたかった。来日公演を収録したCDを注文した翌日に、久しぶりにCDプレイヤーを手に入れたのである。いいタイミングだった。

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CDジャケットは、テクスチャーの付いた真っ白な紙にタイトルだけが浮き彫りになっている、シンプルな美しいもの。とても静謐だったあのコンサートの印象にぴったり。アルバムの冒頭、ジョアンを熱く迎える拍手の後、彼が最初に発した一声「コンバンハ」からすでに音楽は始まっている。あの声、あのギター。自分が日常的に聴いている若い頃のジョアン・ジルベルトが、鋼のごとく強靱に本質を保ったまま、年輪を重ねて熟成した姿。音響の感じが絶妙で、声もギターもバランスよくまっすぐ耳に届いてくる。これはとてもいいアルバム。今後も、静かに集中して音楽に浸りたいときにプレイヤーにかける大切なアルバムになるだろう。よかった、今さらでも手に入れられて。ステージ終盤の録音に技術的な問題があってコンサートの全貌はCD化できなかったようだが、自分内で全体的な印象としてしか残っていなかった来日公演が、理想的な音質でちゃんとした作品として残されていた。これでもう忘れない。あのときのジョアン・ジルベルトにいつでも会えるのだ。録音が残っていて聴きたいときに聴けるのはやはり有り難い。

もちろん、古典音楽などでは大聴衆が静かに独奏を聴くコンサートは当たり前。しかしジョアン・ジルベルトの場合、基本はポピュラー音楽だし、ステージから放たれる音は終始とても微かなもの。フォルティッシモもフォルテもなく、ほとんどがピアニッシモで奏でられる音ばかりである。その微かな美しい音をひとつ残らず聞き逃すまいと、息を詰めて見守る満場の聴衆。演奏が終わるたびに心のこもった喝采を送る。演奏が始まればすっと静かに集中して聴き入る。そこには確かにジョアン本人を含めた会場全体の親密な一体感があった。それは翌2004年の聴衆のひとりだった自分もよく覚えている。CDのライナーノーツによれば、ジョアンはそれを「アンビエンチ」と表現していたという。もともと初来日公演をCD化する予定はなかったが、ジョアン本人がDATに録音していた演奏、とくに納得のいく出来だという9月12日公演の「アンビエンチ」を大事に思い、このままの形でぜひリリースしたいと申し出て、世に出たものがこの作品だと、ライナーに書いてある。

この2003年来日時、ジョアン・ジルベルトは日本の聴衆に大きな感銘を受け、滞在をとても楽しんで幸せそうだったという。翌年、再び日本に来てくれる気になって、自分がジョアン・ジルベルトの演奏を体験できたのは、2003年の聴衆のおかげだったのだ。ありがとう、素晴らしいアンビエンチを作り上げてくれた、2003年の聴衆。2006年に再々来日して、それが最後の来日公演になったようだ。ジョアンが2004年の再来日も気に入ってくれたのだとしたら、そのとき東京国際フォーラムの客席に座っていた一人として、とても誇らしいことだ。

CDのライナー冒頭に、ジョアン・ジルベルトからこのCDのために贈られたメッセージが載せられている。

親愛なる日本のみなさんから頂いた優しさに、心からの感謝を捧げます。

アリガトウ、ジャパン。
アリガトウ。

アリガトウが2回繰り返されている。こちらこそ本当に、アリガトウ。安らかに。

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