なぜ泣いてるのかって?すべてが美しすぎるからさ、ハッ!

中高生の頃はビートルズを入り口として、60年代のロックに熱中していた。80年代後半、リアルタイムのロックにはほとんど目もくれなかった。ロックという音楽は70年代で死んだものと思っていた。いかにもロックな恰好をしてロックな曲を演奏する、俺たちロッカーだぜ、という連中はいても、そんなものに全然ロックを感じなかった。逆にそれは単なる保守で、まったくロックではなかったのだ。どうして誰もそこに気づかないんだろう、と思った。だから、現在が何年であろうと関係なく、自分が一番格好いいと思う時代、60年代の音楽にのめりこんでいた。

そんな時代が煮詰まったころにニルヴァーナが目の前に現れて、自分の世界はガラリと変わった。保守的なロックに対するアンチテーゼ。「保守的なロック」自体が逆説的なのに、さらにその逆説。「俺たちは偶像化を拒否する」(だったかな)という発言に深く共感した。ロックもパンクも自分のものではなくて、上の年代のもの。92年2月、来日公演のステージで縞々パジャマ姿のカート・コバーンがギターをかきむしるのを見て、自分の年代の「代表」がとうとう現れたと思った。今これを選んで目撃できた自分は絶対に間違ってなかった、と帰り道に自己肯定感に満たされたのをよく覚えている。

しかし、その偶像化を拒否したはずのカート・コバーン本人が衝撃的な自死を遂げて、ものの見事にロックアイコン、偶像に祭り上げられてしまった。世間の願望としては、あくまでもロックンロールの自殺者、殉教者が求められていた。カートは、そのポジションにまるで吸い寄せられるようにぴったりとはまってしまった。自殺を格好の材料にして、世間はお望みどおりのロックレジェンド90年代バージョンを作り上げた。罪深い、本当に罪深いと思う。自分はこの「伝説」に祭り上げられていく経緯をリアルタイムで眺めて、深く絶望してしまって、未だにニルヴァーナのことをあまり正面から書く気にならない。どうせいくら真剣に書いたって英雄崇拝と誤解される、絶対に正しく伝わらない、と思ってしまう。この記事ぐらいが精一杯。

そんな風に自分がニルヴァーナに熱狂していた90年代のさなかにも、高校生時代に繰り返し観ていた「ビート・クラブ」のVHSビデオをたまに引っ張り出して、大好きだったスモール・フェイセズの「Itchycoo Park」の映像を観ながら、やっぱり本当はこっちのほうが良いものなんだよなと、内心では思っていた。


いくら技術的に未熟であっても、60年代のロックにはビートルズが切り開いた新しい時代の熱気があって、時の流れとともに腐ってしまう前のフレッシュな純真さがあって、ステージに立つスモール・フェイセズのフロントふたりはいい笑顔でキビキビと動いている。この映像のきわめつけは、曲の終盤のブレイクでスティーヴ・マリオットが全身で決める、最高の「ハッ!」である。90年代、普段着以下のどうしようもない服を着てステージに立ち、不機嫌な顔でやる気なさげにギターを引きずりながら演奏する連中とは雲泥の差。でも70年代に生まれ、スモール・フェイセズとはまったく違う時代を生きた自分は、その時代の声なき声をまさしく代弁してくれたニルヴァーナに熱狂していた。今でも時々は聴く。でも60年代ロックはもっとよく聴く。自分が生まれてもいない頃に流行った60年代のロックに、どうしてそんなに惹かれるのだろう?それは、すべてが美しすぎるからさ、ハッ!

タイトルとURLをコピーしました