You've got a lotta nerve to say you are my friend

実名でFacebookアカウントを持っていて家族やリアル知人とつながっているが、自分から投稿することはもうめったにないし「友達」の投稿を日常的に見に行ったりもしない。細々とした近況、どこに行った、誰と会った、何を食った、全然知りたくないし、知らせたくない。お互い、おおむね元気でやっていればそれでいい。

先日、老猫様が相棒猫と仲良く一緒に写った一番可愛く撮れている写真、まだフィルムカメラが当たり前だった時代に撮った写真のネガを発掘して、アナログな写真屋さんに持って行き、引き伸ばしとデジタル化をやってもらった。撮影から20年も経過したネガはデジタル化しても全体に黄色く変色していた。もっと色鮮やかな写真だと思っていたんだけど、思いのほか時の流れを感じさせる仕上がりになっていた。20年、やはり長い。

その写真をこないだFBに載せた。老猫様が亡くなったことを、生前可愛がってくれた、お世話になった人々にはひとこと知らせなければとは思いつつ、しばらくはFBに投稿する気になれなかった。大して関係ない人々から通り一遍のご愁傷コメントなんかもらいたくなかったし、それに返信するのも億劫だった。老猫様をリアルで可愛がってくれた人たちがその記事にコメントを入れてくれる。もちろんそれはいい。自分も心を込めて返信する。しかし、何十年も会ってない人からコメントが来る。小学生時代、一緒のクラスだったことがある人。当時は仲良くしてたかもしれないが、転校もしたし、小学校を出てから連絡はまったく取ってなかった。数年前にどうやってだか自分のアカウントを見つけてきて、「友達」になった。とくに趣味が合うわけでもないけど、何かというと「つながり」を持とうとしてくる。予想していたとおり今回も何か言ってきて、予想していたとおり不愉快な気持ちになってしまった。

こういうのは、ネット的には当たり前の接し方なんだろう。ネット対応型人間でない自分の了見が狭いんだろう。しかし、うちの老猫様のことなど見たことも触れたこともない、何も知らないのに、自分と親しい友達でもないのに、老猫様の死について何かうわべだけ綺麗なことを言ってきて、自分はその人が「分」を越えてきた、と感じた。人と人の間にあるべき「分」である。どうしてこんなに不愉快になったんだろう、と考えているうちに「分」という言葉が出てきた。分をわきまえない人が自分は嫌なんだ。21年間、老猫様とずっと一緒に暮らしてきた日々の終わりを、軽々しく「つながり」のネタにしてほしくなかった。自分は、本当に親しい、敬意を持って付き合える人々とつながれればそれでいい。俺と友達面しようなんてずいぶん図々しいね、というのは、ディランの歌詞の中でも昔からなぜか特に好きなフレーズである。

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