アナーハタ・ナーダ:叩かれざる音

たいていの人間は良心を持っていて、可能な限り他人に親切にしようとするだろう。自分も人生のほとんどの時間は、色々な人たちに親切にしてもらって気分良く暮らしている。大きな問題はない。有り難いことだ。それでも人間にはエゴがあるから、いざというときにはエゴが良心を上回り、自己の利益に反する他人を裏切る。一番の親友だと思ってた奴が自分を裏切ってきたときの顔、何年経ってもよく覚えている。ああ嫌だ嫌だ、そんなこと早く忘れたい。でもふつうの人間が世間で生き抜くために、ある程度それは仕方がないこと。わかっているとも。いざとなれば自分だってそうなるかもしれない。そうなるだろう。

自分が好きになる音楽は、演奏している人間のエゴを感じさせないもの。俺の歌、俺の演奏、すごいだろう。俺は時代を鋭い感性で切り取ることができるんだ。御大であるこの俺はあの曲をこんな風に解釈してやったぞ。そういうミュージシャンエゴが透けて見える音楽は自分には不要。聴きたいのは音楽であってエゴではない。エゴを見せつけられるぐらいなら、徹底した商業主義で作られた音楽のほうがまだ良いぐらい。一番好きなのは、たとえば、夢の中で流れていたあの音楽、あの美しいメロディを皆に聴かせたい、どうにか再現したい、と誠実に努力した末に生み出されるような、そういう音楽。我を忘れて夢中で演奏しているうちにすごいフレーズが弾けた、とか、そのへんに浮かんでいた綺麗なメロディを壊さないよう慎重に捕まえて曲にすることに成功した、とか。

インド古典音楽の本当に優れた演奏家たちは、エゴのために演奏しない。アナーハタ・ナーダとは、「叩かれざる音」という意味。神々が奏でる音楽は、太鼓を叩いて鳴らされるものではなく、音のない音楽。修業を積んだヨガ行者だけが聴くことができるという、その神々の音楽、アナーハタ・ナーダを我々一般人でも聴けるように再現するのが、インド音楽家の役割だという。そのために彼らは幼少時から毎日毎日厳しい練習を積むのだ。そんなことを知って、これこそ理想の音楽じゃないか、と自分は思った。インド古典、演奏にはものすごく厳しい修練と高度な知識、テクニックを要するので、「俺の演奏、どやっ!」というエゴが入り込む余地が実はけっこう大きい。そんなエゴの段階を突き抜けて本当に成熟した演奏家は、人間の力ではどうしようもない何かに強力に突き動かされ、自己を捨て去ったかのように全身全霊で神々の音楽を再現しようとしていた。インドで暮らしていた頃はそんな音楽をたびたび生で体験できた。あの音楽は、演奏者と同じ空間で特別な時間感覚を共有したとき本当の意味で体験できる。またインドで音楽が聴きたい。

アナーハタ・ナーダについて繰り返し歌うラーガ。インドで買った古典CDの一枚に入っていて、気に入っている。

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