備え続けること

2011年3月11日から今日で10年。その日、自分は海外暮らしをしていて日本にいなかった。もちろん母国で起きた大災害のことは現地でも大きな話題になって、自分も当時さまざまな影響を受けたけど、遠いことといえば遠いこと。帰国して、それまでまったく縁のなかった土地に住み、市内でも一番古い歴史を感じて素敵だと思っていた地域に格安の貸家を見つけて、その家でこれまで5年半生活してきた。この近辺で今後30年以内に大震災が起こる確率がびっくりするほど高いことと、この築50年近くの古い貸家が現代の耐震基準を満たしていないことは、すべてここに住み始めてから認識した。帰国直後の自分は、震災、水害といった災害のリスクにまったく無頓着だった。

危険性が高いことを知ってからも、何事もないように天に祈りながら、この古い貸家で暮らし続けていた。とうとう動くタイミングが到来して、新居探しをしたときには、猫と一緒に暮らせることのほかに、新耐震基準を満たす(古くても1981年以降に新築された)住宅であることを必須の条件とした。これを満たす新居が無事に決まって引っ越しの準備に追われている今だけど、帰国してから6年近くもリスクの高い状況から抜けられなかった。危ないと分かった時点ですぐ引っ越すべきだ、と思われるかもしれないが、そんなヤドカリみたいにほいほい移れるものではない。この土地は大好きだし、引っ越さずに済むのならずっとここにいたいと今でも思っている。近所の人々とのつながり、地域での役割もあり、半端な時期に抜けるのは無責任だというのも大きかった。色々な事情に縛られて暮らしているのは誰だって同じだろう。自分なんて全然少ない方だと思う。

今すぐ安全な家に移れないとしても、できる限りの備えを、と非常用の水や食糧その他を詰めたリュックも数年前から用意していたけど、非常食のカンパンも水も時間が経って賞味期限が来たので、非常用ペットボトルの水を沸かしてコーヒーを淹れ、カンパンはお茶請けにして美味しく食べてしまった。そうやって消費してから、水も食糧も買い直していない。備えようと思ったのはいいけど、数年・数十年のスパンでその備えを更新し続けることは、こんな怠惰な暮らしをしている人間には難しい。それでも、いつ起こるか分からない災害に備え続けることが何よりも大切であることは、頭では分かっている。引っ越し先では必ずすぐにまた買いそろえるつもり。こうやって、緩んだり締め直したりを繰り返しながら生きるのだろう。

このブログという場がある以上、せめて3月11日には震災のことを思い出して、しばらく考えて、記事を書こう、なんてブログ開設1年目には言っていたが(2019年3月11日付けの記事)それすらも昨年さっそくさぼっている。コロナ禍の襲来が本格的に始まった時期で、少し頭がおかしくなっていたようだ。自分が本当に痛い目に遭わない限り、こんな風に忘れたり思い出したりを繰り返して生きている。被災された方々にとっては、10年経っても、20年経っても、一度受けた大きな痛手の悲しみは消えるどころか、薄れることもないかもしれない。故郷から遠く離れた東京のマンションで孤独な避難生活を余儀なくされている方々が今でもたくさんいることも、ニュースで読んだばかり。怠惰な忘れっぽい自分も、やはり年に一度のアニバーサリーにはここに何らかの文章を書いて、緩んだ備えを締め直す機会にしよう。10年前、遠い母国で起きた大きな悲劇が、今ではもっと我が身に迫ったものになっていることは実感として確実にある。できる限りの備えをして、生き続けなければ。毎年そう思う日にしたい。

この記事を一旦投稿したすぐ後に、震災発生時刻の14時46分になり、市の防災無線から黙祷の呼びかけがあった。目をつぶって黙祷した。

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東日本大震災の翌日未明、2011年3月12日午前4時前に長野県栄村でも震度6強の地震があり、多くの方々が被災。2年半前、たまたま訪れた駅の前にあった震災復興祈念館でそのことを知り、当ブログで記事にした。この「もう一つの震災」のことも忘れない。

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