黄いろのトマト

最近、宮沢賢治の作品でよく思い出すものが一篇ある。とてもとても悲しい話だ。初めて読んだとき自分は20代半ば頃だったと思うけど、その作品のことは「とても悲しい結末の話」としてだけ印象に残っていて、最近まで題名や具体的な内容はほとんど忘れてしまっていた。こないだ、家の本棚にある「ポラーノの広場」の文庫を久しぶりに引っ張り出して読んでいたら、その長年忘れていた悲しい話と再会することができた。「黄いろのトマト」という短い童話風の作品である。宮沢賢治の童話の中でもそれほど有名な作品ではなさそうだけど、自分の中にはとても強い印象がある。

「黄いろのトマト」はペムペルとネリという小さな兄妹の話で、それを語るのは町の博物館の大きなガラスの戸棚にいる蜂雀の剥製。この蜂雀は、ペムペルとネリの話を語る前に「ほんとうにかあいそうだ」「かあいそうなことをした」と何度も繰り返す。途中、黙り込んで死んだようになってしまったりもして、なかなか話を最後まで進めない。実際、本当に可哀想な結末なので、読者に心の準備をしてもらうための配慮なのだろうけど、もしかすると「かあいそう」「かあいそう」と何度も前置きをすることには、これは本当に可哀想な話なんです、読者のあなたにはこの悲しさがちゃんとわかりますか、という書き手からの問いも含まれているように思える。実際、これを最初に読み終えた20代半ば頃の自分は、しばらくピンと来なかったのである。たしかに可哀想だったけど、だから何なのだろう、こんな結末になるのは仕方ないんじゃないか、と思ったのだ。本当の悲しみは、それから30分か1時間ぐらい経って不意に押し寄せてきて、しまいには大波に飲み込まれたようになってしまった。かなり深いところで打ちのめされた。小さなペムペルとネリがとても大切に抱えてきた貴重な価値のあるものと、その価値を無下にする残酷な大人たち。この悲しい話の意味がしばらくピンと来なかった当時の自分も、血も涙もない大人の世界に足を踏み入れていたのだろう。少なくとも、そのとき思わぬ激しい悲しみに襲われた後は、蜂雀の言う「ほんとうにかあいそうだ」の意味は痛いほどによく分かった。あの話を読む前と後では、自分の中で何かが決定的に変わったような気さえするのである。「黄いろのトマト」を読んで、でもそんなの仕方がないじゃない、と笑う人間と、どうしようもなく打ちのめされる人間に分かれるとしたら、間違いなく後者を信用したい。自分も前者になりかけていたのだけど。

最近になってこの話をまたしきりに思い出しているのは、今の自分の状況に重ね合わせているからにほかならない。ちょうど「黄いろのトマト」を初めて読んで衝撃を受けた頃から、25年以上にわたって細々と続けてきた暮らしを、自分が信じてきた価値とはあまり関係ない側面から審査されようとしている。この歳になるまでひたすら回避してきたことに、とうとう正面から対峙させられるのだ。とても怖いことである。審査の申込用紙には自分に関する色々な選択肢があって、その中から番号を選ぶのだけど、当てはまるものがどこにも見当たらない。世の中の真っ当な人々にはそれぞれ収まるべき箱があるようなのに、この自分が入ってもよさそうな箱が見つからない。自分は何者なのだ。どこに行けばいいのだ。もし審査に通らなくてこの話が駄目になったらどう立ち直れば……ちょっと我ながら呆れてくるけど、ちっぽけながら50年やってきた人生の中間決算を迫られ、根本から揺さぶられるような恐怖感に日々苛まれているのが自分の現状である。まな板の鯉。とにかく今の自分は、周囲の状況に左右されるのではなく、自分の心が指示する通りの方向に進んでいる。もう後悔はしたくない。黄いろのトマトを投げつけたければ、そうすればいい。今の時点で書けるのはここまで。

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5年前の夏、旧居のベランダで育てていた鈴なりのミニトマト

宮沢賢治の「黄いろのトマト」は、文庫本を買わなくてもネット上の青空文庫で読むことができる。短いお話なので、興味のある方はこちらで。でも、ほんとうにかあいそうなお話である。

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